ナイズの古賀です。
文部科学省が、先日、「ゼロトレランス」の導入に向けて、調査研究をスタートさせると発表しました。ニュースサイトや他の方々のブログでの説明がある通り、「寛容さ(トレランス)が一切ない(ゼロ)」の教育方針のことです。簡単に言えば、生徒の行動についてある一定の基準を設けて、どんな事情があろうが、悪いことをしたら、その基準に従って処罰するって事です。基本的には対話(ガイダンス)はなし。即刻処罰。
子どもをしつける上で、適度な暴力は必要と私は思っています。子どもの時に、言葉でいけないことだとどんだけ説明されても、分からんものは分からんはず。小さい時は、体で教えて、ものごとの良し悪しの分別をつけさせるべき。もちろん、過度な体罰・愛のない体罰とかは考えものだけど、基準に則って、厳罰に処する方が、罰を受ける子どもの視点に立ってみても、納得できる思う。「あいつだけ、ひいきして」みたいなことは起こりにくくなるはずだから。
教育評論家の尾木直樹氏は、「ゼロトレランスを文科省がまともに取り上げること自体が教育の混迷と荒廃、大人の無策を象徴している。導入は教育の自殺に等しい」と主張しているようです。教育の自殺って面で考えると、厳格に処罰してから、子どものことを真剣に考えられるかどうかってところが重要になってくると思います。そこを放棄したら、教育の自殺です。厳罰を行うことで、社会で生きていくうえで必要なルールを体で覚えさせられる。そして、その社会という枠の中で、一人ひとりの持っている可能性を引き出してやるのが教育の使命だと私は思います。
このゼロトレランスはアメリカの追従です。なので、この制度を導入すると、日本がアメリカに近づくという懸念があります。他者の存在に対して、寛容さが失われれば、アメリカ化していくという懸念は的中します。だから、この「ゼロトレランス」を行いながら、寛容さ(トレランス)の重要性を伝えていくのもより大事なことになると思います。
また、他のブログ見ていると、「誰が運用するんだ」「この制度を運用するだけの文化的土壌がない」っていう意見があります。前者に関しては、現状の現場の教師の方々で、この制度をきちんと運用していくのは難しいかもしれないです。ほとんど破綻してしまっている総合的学習の時間は、試み的には面白いと思いましが、制度をまわす方法を文部省がきちんと提示できなかった(予算組みも人の配置も)ために、運用が困難になったと私は思っています。なので、このゼロトレランスを導入する時には罰の厳格な基準を作り、きちんとこの制度としてうまく機能するように運用方法まで目を向けて、文部科学省はつくり上げる必要があると思います。
後者に対しては、日本には「オルタナティブスクール」もなければ、アメリカのような「契約社会」ではないので、日本では受け皿が足りないなって感じています。このような文化的な違いを吸収できるように「ゼロトレランス」の制度を日本向けに再構築できるかどうかが、文部科学省の皆さんの手腕だと思ってます。ただパクって来るだけなら、役人はいりません。とは言うものの、文部科学省にはそんなに期待はかけられないかもしれません。今までが今までですから。教育が死なないように、今度こそ、子どもたちのこと、将来の日本のことを真剣に考えて、文部科学省の方々には取り組んで欲しいと願ってます。